真空断無弾

日々の色々な事柄の忘備録的感想。戯言。

「真夜中のカーボーイ」(1969)ろくでなしのバディーもの。

筋少の歌う所の「サボテンとバントライン」が凄く好きで、歌詞の中に登場する少年が見とれて爆死する映画とはどのような作品なのだろうと思い、いつか見ようと思ってから20数年…。ずっと見たいと思っていた映画なのだがようやく見た。

 

テキサスからニューヨークに出てきたボンクラ、ジョー(ジョー・ボイド)とニューヨークからフロリダに旅立ちたいと願うドサンピン、ラッツォ(ダスティ・ホフマン)の友情と破滅の物語。

 

ジョーはカウボーイスタイルに身を包み、ジゴロ稼業で生きていこうとしている相当なボンクラである。見た目は悪くないが発想や行動が全て軽く、薄く、何をやっても上手くいかない。女から金を巻き上げるどころか逆に金をむしられる。万事上手くいかな過ぎて貧困に窮し、ゲイを相手にするもそれも上手くいかない。基本ボンクラだが性根の良い男で悪い男にはなり切れず何事も上手くいかない。しかも過去にトラウマがあるらしく結構な闇を抱えている。

ラッツォはネズ公とあだ名される小男である。肺を病み、大都会ニューヨークに生きる片足が不自由な最下層の貧乏人である。閉鎖された廃墟のビルに巣食い、貧困と絶望を友に都会の生活を送り、ケチな窃盗や田舎から出てきたボンクラとかをカモにして生活の糧に生きている。 ひょんなことから共同生活することとなった二人が何とか貧困から這い上がろうとして足掻くのだが上手くいかない。基本的にろくでなし達の話であり、主人公二人の考えは浅く稚拙だ。それゆえ何もかも上手くはいかない。当然だ。世の中そんなに甘くないし簡単ではない。テキサスの田舎での皿洗い仕事や、過去のトラウマだとかを払拭するためにニューヨークでジゴロ稼業で生きていこうとしたジョー。ボンクラである。ボンクラの極みだ。冒頭の話に戻るが、少年が見とれて爆死するほどの映画か?と序盤のボンクラの旅立ちから大都会ニューヨークでの厳しい現実の件を見た時は思った。正直ボンクラによるボンクラな発想のボンクラ展開。キツイ。話が一変するのは、ラッツォの登場からである。話はここから面白くなる。貧乏人が貧乏人をカモにする。カモと詐欺師が仲良くなる。皮肉で滑稽な話が都会の貧困と交わり何とも切ない。都会の厳しい現実。当てのない理想と容赦ない貧困という現実。優しく手を差し伸べてくれる者など誰一人としていない。手を差し伸べてくれるのは己の半身のような貧乏人。皮肉すぎるし切ない。しかしそこが最高に面白い。皮肉や切なさはイコール面白さなのだ。またまた皮肉な話だが…。不承不承に始めた共同生活の中で二人は協調し同調し始める。ジョーとラッツォは容姿や風貌、生まれや育ちは違えど似すぎているだ。ジョーはテキサスの田舎からニューヨークへと逃避し、ラッツォは寒い大都会ニューヨークからフロリダのマイアミへの逃避を夢見ている。お互いに孤独で貧乏人。行く当てもない。違いは行動力と知恵だ。ジョーは知恵が足りないものの行動力がある。ラッツォは行動力はないが知恵がある。二人はだんだんとお互いに惹かれはじめ友情を深めていく。作中ホモネタは多いがこの二人に関してはそうゆう類の関係ではなく、ソウルブラザー的な関係になっていく。

 

ハッキリ言えば、貧困の奈落に突っ走って破滅していく青年2人の救いのない話なのだが、中盤から終盤、ラストの流れは、またまた冒頭の話に戻るが、少年が夢中になって見とれ爆死するのもさもありなん、と思える面白さだった。互いに今いる場所からの逃避を望み、今ある生活からの脱却を願っている。貧困の悲惨さと孤独。そこから逃れられない先の見えない無い不安。1969年に作られた作品だが十分にそのテーマは現在進行形でわが身の事のようにも思える。最終的にジョーは悟り、真っ当な道を歩むことを決意するラストにはなっているのだが、その先は闇の中だ。世の事の理は因果応報。はっきり言ってジョーの未来には過去のツケから考えて、大きな破滅が待っている。しかし破滅のその先のジョーの人生がどうなるのだろうと考えれる開放感のある最後になっている。

 

しかし1969年の作品が2017年の現在でも骨身に染みる感じというのは、世界と言うのは全然変わらないし救われないのだなと思える作品だった。面白かったけどね。

 

まあ、私が甲斐性無し、ろくでなし属性の人間だから感じるモノが強いってだけなのかもしれんが…ぎゃふん。

 

 

 この映画ダスティ・ホフマンの演技が評価されがちだけど個人的にはジョー・ヴォイドの方がいいと思った。トッポイ、カウボーイかぶれの兄ちゃんを好演してる。流石、アンジェリーナの実父。無論ダスティ・ホフマンの演技が凄いのに異論はないけど。